人生にケリをつける

午後に起きて、ご飯を食べながら録画していた「ファミリーヒストリー」出川哲朗の回を観る。

母親がすごかった。

あちこちに愛人を作って家には帰らず放蕩三昧、あげく先物取引で大失敗して会社を倒産寸前にまで追い込んだ父親。そこからは母親が経営を立て直していくのだが、父親はそこから姿を見せなくなった。そんな父親(というか夫)を死ぬまでの最後の期間、引き取って面倒を見るというその気概。

本人はもう亡くなっているので、出川の兄がそのへんの感情を推察して言った、

「自分の人生にケリをつけたかったんじゃないですかね」

という言葉が強く印象に残った。

損得とか、愛憎とか、そういうもので割り切れない感情というのが確かにあるのだろう。

本当に自分の感情に忠実に生きていないとできないことだと思った。

 

 

順風満帆な人生などない

特に予定がない&金がない&現実逃避で家でじっとしていた。

夕方、起き上がって年賀状をチェック。

俺が出してないから当たり前なのだけど、年々数が減っている。

で、来てるやつはみんな子どもネタ。「育児楽しすぎ!」と書いてるのがあって、幸せそうだなと思った。俺も育ててみたい。

あと、大学のバイト時代の仲間がいまだに毎年年賀状をくれるのは本当にありがたい。

 

ネットをチェックしているとチノパンが人を轢き殺したというニュースが。

現場がホテル街だったこともあって「不倫だったのでは」など憶測を呼んでいるが、そういうゴシップ的な興味よりも「順風満帆な人生にもあっさり傷がつくもんなんだな」みたいなことを考えてしまった。

決定的な挫折ってあんまり経験してなさそうだから、本人は今ものすごい絶望の中にいるのだろうなと思った。

とは言え。この事件で仕事が減ったり評判が落ちたりはするだろうが、それでもやっぱりまだ市井の人間よりは恵まれた環境にあるんだろうなという気はする。

 

深夜、「今度は愛妻家」を見ながら寝た。いい映画だった。今度は、か。

紅白の価値

大晦日は、友人宅でパーティー的にいろんなものを食べながら紅白を見て過ごした。

紅白を人と一緒に観るのは単純に楽しい。

良いパフォーマンスであればもちろん言うことないし、

それが良くないパフォーマンスであってもみんなでよってたかって悪口を言う、

そのことが楽しい。

ちょっと視聴率が悪かったくらいで「もう紅白はやめたほうがいい」みたいなこと言う人がいるが、出来不出来込みで話題の対象になるという意味ではいまだに最強のコンテンツだと思っている。

 

東京でこんな感じの年越しをしたのは初めてだ。

こういうのが毎年恒例になればいいなと思った。

 

年を越して、しばらく生さだを見てから世田谷八幡宮へ。

帰宅して寝る。

初夢は「サザンのコンサートを舞台袖から見ている」というものだった。

 

起きたら昼。寂しいので逃げるようにそのまま寝た。

夜、ニッポンのジレンマを観る。

あんまり噛み合わない議論。

同じ噛み合わなさでもまだ去年のほうが大きなインパクトがあったと思う。

視聴者が視聴率を気にするのはたぶんメディアの影響

昨日NHKでやってた「新春TV放談2012」で、小島慶子さんが

 

「視聴率の良し悪しが関係あるのは、その番組に広告を出してる広告主のはずなのに、なんで(視聴率に何の利害関係もない)一般の視聴者がいちいち視聴率を気にするんだろう」

 

という趣旨の、超もっともなことを言っていた。そこで思ったのだけど、そういう風に一般視聴者が視聴率を気にする傾向には、なんらかの構築過程が絶対あるはずだよなと。視聴者が視聴率を気にする必要は本来ぜんぜんないのだけど、たぶんメディアの側が視聴率を気にするようにあおってるはずなんだよね。紅白とか話題のドラマとか大きなスポーツイベントが放送されるたびに、スポーツ新聞が超極太の見出しで「40%超え!」みたいに書いたり。

 

つまり、みんなが視聴率を気にするのは、「勝手にやってる」というよりは「なんらかの学習の結果」なんじゃないかと思うわけです。で、その「視聴率をめぐる言説」というのはたぶん時代ごとにちょっとずつ変化してきてるような気がする。気がするっていうか、確実にそうなんじゃないかと。あと、こういう傾向はテレビが普及した国ならどこでもあるのか、日本はわりと特殊なのか、とか。

 

掘り下げがいのあるテーマだと思ったので、とりあえずメモ。ていうか、すでになんか文献あるのかもしれんが。

イノベーション観

スティーブ・ジョブズが亡くなった頃、TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ!」を聴いてたら、山田五郎が「スティーブ・ジョブズがいかにすごい人物か」を解説していた。そこでの荒川強啓とのやり取り。

 

荒川「(iPhoneのことに触れて)こういうものを作るのはもともと日本のお家芸だったわけですよね。なんで日本からこういうのが出なくなったんだろう」

山田「いや、実はiPhoneそのものにはそんなに革新的な技術が詰め込まれているわけではないんですよ。一つ一つの技術はありふれているけれども、それをうまく組み合わせることによってiPhoneができた」

荒川「だからそういう製品を作るのはもともと日本のお家芸だったわけでしょう? いったいなんで…」

山田「だーかーらー!!!」

 

荒川強啓あたま悪いんじゃないか、とその時は思ったのだが、後になってから、こういう感覚ってこのへんの世代に共通してるものなんじゃないかと思うようになった。イノベーション観の違いというか。

 

ここでのイノベーション観って、「今までにない革新的なテクノロジーで、それを搭載した製品を出せば売れるはず」みたいなやつでしょ。それが身に染み付いていて、「既存の技術を使って、面白いもの/使いやすいものを生み出す」というイノベーション観をたぶん根本的に理解できないんだと思う。ていうか、「既存の技術を使って、面白いもの/使いやすいものを生み出す」って、ほとんどのウェブサービスがそういうものだよね。このへんのイノベーション感の違いに、日本におけるIT企業の地位が低い一因があるような。

 

 

 

2011年について思うこと

2011年ってすごいターニングポイントの年だったんじゃないか、とその渦中にいる間は思っていたのだけど、一応年を越して振り返ってみると「体(てい)のいいもの/善きものがやたらフィーチャーされる」という年だったんじゃないかと思えてきた。

 

「体のいいもの/善きもの」というのは、いかにも口当たりのいいような物言いとか、裏打ちのない空虚なポジティブさみたいなもの。こういうの前からあったんだけど、3.11を機に一気に加速した感がある。「被災地を励ます」とか「がんばろう日本」とかさ。あと「絆」ね。

 

意地悪な見方かもしれないけど、こういう言葉をメディアで発する人って本当にそういうこと思ってんのかな〜と疑問に思う。愚直にそう思ってるだけなら別にいいんだけど、なんか「こういうのじゃないとまずいでしょ」みたいなさ、「届く言葉」よりも「怒られない言葉」を中心に選んでいるような気がしてならない。で、けっこう本人はそのことに無自覚だったりして。

 

さっきNHKオンデマンドで見逃してた紅白をかいつまんで観てたんだけど、やっぱり国民的行事である紅白にはその色が濃く現れていて。当たり前だろうけど、歌詞を要約すると「がんばれ」になるような歌が多かった(あとは「好きだ」)。老若男女が視聴する国民的番組なので、ある程度は「被災地がんばれ」的なノリになるのはもちろん理解できるのだけど、なんか度を越して空虚に思えるようなところがあったんだよね。レディー・ガガの歌詞テロップがものすごい意訳されてたことはその傾向の一つの表れだと思う。で、たぶんこの流れは今年以降もしばらく続くに違いないわけで。

 

メディアの問題って挙げたらたくさんあるんだろうけど、「流通する言葉が空虚になっていく」という問題はすごく本質的な、根の深いことなんじゃないかな〜と。